コードを書かないSE日誌

SE歴26年。コードを書かずにClaude Codeで8体のAIエージェントチームを動かしています。AIエージェント・自動化・GTDの実験日誌。

組織が完璧に回り始めた日に、書くことがなくなった

最近、Claude Codeを中心にしたマルチエージェント運用が、ようやく安定してきた。エージェントは賢く、品質ゲートは通り、毎日のように記事が公開される。組織図のとおりに、誰かが(正確には何かが)動いている。

それなのに、今朝になって、書くことがなくなった気がした。

正確に言うと、出来事が起きていないわけではない。今週もMac miniへの移行があり、Dreamingという機能が話題になり、3画面で脳が限界を迎えた。事象は、毎日のように起きている。けれど、それを記事に変換しようとすると、なぜか「もう書いたな」という感覚が先に来る。

雑談として、Claudeに「最近、新しいネタがあんまり拾えなくなってきた」と漏らしてみた。返ってきたのは、慰めでも励ましでもなく、こちらが想定していなかった問いだった。「事象が枯れているのではなく、書き方の型が固まってしまっているのではないか?」

確かめるために、過去1ヶ月分の記事を全部読み返してもらった。出てきた診断が、自分でも少し恥ずかしくなるくらい明確だった。

完璧に回るとは、どういう状態か

ここで一度、「完璧に回る」という言葉が何を指しているのかを書いておきたい。誇張がしたいわけではなく、診断の前提として必要だからだ。

うちのマルチエージェント体制は、いまこんなふうに動いている。

  • 雑談からネタが拾われ、ネタ帳に追記される
  • ネタ帳から記事の構成案が立ち、writerが草稿を書く
  • reviewer がファクトチェックし、reader が想定読者の感情面をレビューする
  • 品質ゲートを通った原稿が、はてな・Zenn・Qiitaに自動でクロスポストされる
  • ガバナンス事故が起きれば logs/governance-incidents/ に記録され、ルールが更新される

このサイクルは、いまのところ、ほぼ無痛で回っている。私が手を動かすのは、雑談と、最終確認と、コミットメッセージくらいだ。失敗しても、失敗のしかたが定型化していて、対処の手順がもう書いてある。事故が起きると、私はむしろ少し嬉しい。ネタが増えるからだ。

そう、ネタが増える。事故すらネタになる。だから事象は枯れていないはずなのだ。

それなのに、書くことがなくなった気がした。

自分の記事21本を読み返したら、3つの型しかなかった

リサーチを担当するエージェントに、直近1ヶ月のはてな記事を分析してもらった。対象は21本。導入の型・主張の型・結論の型・テーマ領域の4軸で分類した結果が、こうだった。

導入の52%が「失敗・違和感」から始まっていた

21本のうち、11本が「失敗した」「違和感を感じた」「困った」「あるあるですよね」から書き出されていた。半分以上だ。読者の興味を引くために有効だと信じていたし、実際に有効なのだが、自分の記事を時系列で並べてみると、ほぼ同じ顔をして始まっている。

主張の43%が「失敗 → 構造化 → 法則発見」だった

21本中9本。「60点を食らった」→「批判モードを発見した」→「reviewer×readerの2軸体制に組み直した」のような3〜4幕構成。これは品質ゲートを通りやすい型でもあって、書けば通る、通るから書く、という正のフィードバックが回っている。回っているということは、変える理由がない。変える理由がないので、変えられない。

結論の62%が「教訓化+テンプレート提供」で締めていた

21本中13本。チェックリスト、比較表、3ステップ、5基準、7工程。読者にとっては親切な形だと思って書いていた。実際、親切ではあるのだろう。ただ、自分が次の記事を書こうとするとき、最後の見出しを書く前から、なんとなく表が並んでいる絵が浮かぶ。これは、書き手側からするとちょっと不気味だ。

テーマの95%が Claude Code / AI

21本中20本。ウイスキー、読書、身体感覚、人間関係、季節、場所——そういう非テック軸の話題は、はてなからは姿を消していた。意識してそうしたわけではない。書きたいことを書いていたら、自然にそうなった。

「自然にそうなった」というのが、いちばん怖い部分だ。

「事象が枯れた」のではなく、流し込み型が同じだった

ここまでの数字を眺めて、診断はひとつにまとまった。「同じに見える」のは、事象の貧困ではなく、構造とテーマの二重飽和である。

新しい出来事は、毎週起きている。Mac miniへ移行した。トークン設計を組み直した。3画面で脳が限界を迎えた。憲法のtriggerリストに新しい事故型が追加された。ネタは尽きていない。

ただ、その新しい出来事を、私は毎回「失敗 → 構造化 → 教訓」という同じ漏斗に流し込んでいた。漏斗が同じだから、出てくる形も同じになる。事象が違っても、見た目が揃ってしまう。読者からすると、毎日同じ味の料理が出てくる印象になる。

しかも、いちばん厄介なのは、この漏斗が強いということだ。

雑談のなかで、自分の書き方を振り返って、こんなふうに言葉にしたのを覚えている。「私の記事は『やってみた』ばかりだ」。実装の解説は書けない。コードを書けないから、私が書けるのは「コードを書ける人を運用してみた」という体験記になる。そして体験記は、失敗から入って、構造化して、教訓化すると、ちょうど良い読み物の長さに収まる。

つまり、この型は、私の書ける範囲にぴったりフィットしていた。だから無自覚に再生産されていた。出来事は新しくても、加工の仕方が同じだった。書き手がそれに気づくのは、外から型を可視化してもらった瞬間だった。

ここで教訓を書いたら、自己矛盾になる

ここで普段の私なら、こう書く。「だからこれからは型を5つに増やします。具体的にはこの3パターンと、この2パターンを意識します。チェックリストはこちら——」

それを書いたら、この記事は、まさに今私が診断した「失敗 → 構造化 → 教訓 → テンプレ提供」の型に、自分から戻ってしまう。飽和した型からの脱出を主題にしながら、出口でその型に着地する記事になる。

それは少し誠実ではない気がする。

だからこの記事は、教訓化で締めない。チェックリストも貼らない。次回からこうしますとも宣言しない。代わりに、未踏の余白として見えてきたものを、ただ並べておくに留める。

未踏の余白として、3つを並べておく

直近21本のなかで、ほとんど一度も使われていなかった型が、いくつかあった。便利な使い方を提案するのではなく、書いていなかった事実だけを置いておく。

成功から入って、違和感で終わる

21本中ゼロ。すべての記事が「失敗から入って、成功か納得で終わる」という方向だった。逆方向、つまり「うまく動いている」から書き始めて、途中で違和感が立ち上がり、結論を出さずに終わる、という型は、私はまだ書いていなかった。

ちなみに、いまあなたが読んでいるこの記事は、まさにその型で書こうとしている。成功——というには気恥ずかしいが、ともかく「組織が回り始めた」から入り、違和感で終わる。意図的にやってみている。うまく着地できているかは、最後の段落を読んでから判断してほしい。

他者の体験を主役にして、自分は脇役に回る

これもゼロに近い。私の記事の対話相手は、ほぼ全部「私自身」か「Claude」だ。読者ペルソナとして想定している人物(田中美咲)はいるが、あれはAIに作ってもらった架空像で、実在しない。

実在の他人——たとえば妻、SE時代の同僚、知人、Zenn Bookを買ってくれた読者——にClaude Code運用を見せたとき、その人が何を感じるか。私はまだ、それを記事にしたことがない。書こうとすると、相手を巻き込む実行コストがかかるからだろう。「やってみた」が自分のなかで完結できなくなる。

過去の自分の主張を、もう一度訪ねる

3週間前、私は「憲法を書いたら1日で法律になった」という記事を書いた。同じ問題系で、その後さらに記事を3本書いた。だが、過去の自分の記事を明示的に引用して、「あの時こう書いたが、今は違うことを考えている」と言い直した記事は、まだ1本もない。

事故記録は18件溜まっている(実測)。triggerリストも何度か更新した。1ヶ月前に書いた「憲法 → 法律」は、いま読み返すと、すでに次の段階に進んでいる。「法律になった時点ではゴールに見えたが、実際は法律改正サイクルの始まりだった」と書く準備は、もう本当はできている。書いていないだけだ。

飽和した型でしか、自分の飽和を語れない

最後に、ひとつだけ自覚的に書いておきたいことがある。

ここまで私は「3つの型に集約されていた」「62%が教訓化」「95%がClaude Code」と、数字を出して構造化する型で記事を書いてきた。これは、本記事が脱出しようとしている「失敗 → 構造化 → 法則発見」の型そのものだ。

つまり、私は飽和した型でしか、自分の飽和を語る方法を持っていない。脱出宣言を、脱出したい型のフォーマットで書いている。

これは情けない話ではあるのだが、たぶん、書き手が次のフェーズに進むときには、こういう「ねじれの1本」を一度通過する必要があるのだと思う。型を否定するのではなく、型を使い切って、その内側から自分の現在地を可視化する。完全に新しい型を一発で発明することはできない。少なくとも、私にはできない。

だから、この記事は「失敗 → 構造化 → 教訓」の最後の1本になる可能性もあるし、ならない可能性もある。判断は、来週の自分に任せる。


「最近、新しいネタがあんまり拾えない」と感じている書き手の方が、もしいたら、ひとつだけ実験を提案したい(これは教訓ではない、念のため)。

直近1ヶ月で書いた3本の記事を、並べて読み返してみてほしい。導入の入り方、主張の運び方、結論の締め方が、もし驚くほど似ていたら、それは事象が枯れたサインではなくて、たぶん書き方の型が完成したサインだ。

そこから先、型を壊しに行くのか、型を完成させきるのか、それとも壊した型と完成した型の両方を併走させるのか——私はまだ決めていない。

書くことがなくなったと感じる朝は、書き手にとって、たぶん、悪い朝ではない。


追記: この記事は品質ゲートで79点だった

公開前に、いつもどおり3軸の品質ゲートに通した。Reader 33点、Reviewer 28点、SEO 17点、合計 79.55点。組織の合格ラインは90点なので、本来なら差し戻して修正することになる。

不合格の理由はほぼSEO軸だった。タイトルに「Claude Code」が入っていない、H2に検索語が乏しい、冒頭に要約段落がない。すべて、検索流入を取りに行く記事の定型から外れているという指摘で、それ自体は正しい。

ただ、この記事は飽和した型から外れることを主題にしている。検索語の定型に揃えに行けば、まさにこの記事が診断した飽和型に着地する。それは構造的に取れない選択だった。

だから、修正せずに、79.55点のまま公開した。

——と、書いた瞬間に、これも一種の教訓化に近づくのは自覚している。出口の不在を、出口として演出してしまう。たぶん、これも正解ではない。


書き方の型が飽和したと気づけるのは、そもそも書き続ける仕組みが動いているからだ——すると、次の問いが出てくる——そのマルチエージェント運用、どう立ち上げたのか?

私はこの仕組みを1年近くかけて構築したが、振り返ると「立ち上げ」と「書き続けること」は別の問題だった。立ち上げまでの試行錯誤はVol.1に、書き続けるための自動化フローはVol.3にまとめてある。

「書き方の型」という概念を最初に意識させてくれた本として、外山滋比古さんの「思考の整理学」をたまに読み返す。型を持つことの価値と、型に縛られることの危険を、同時に教えてくれる一冊だ。

この記事のテーマを深掘りした本

コードを書けない私がClaude Codeで「AIチーム」と書き続けるまで ネタの自動収集から公開まで、書き続ける仕組みの育て方(序章無料)

シリーズ全6冊: Vol.1 作るまでVol.2 回すまでVol.3 書き続けるまでVol.4 仕組みを渡すまでVol.5 仕事を任せるまでVol.6 1人エージェントチーム